2025/1/9 - DoTTS Faculty 教員コラム
昔の正月:おせち料理・お風呂・凧あげ・お年賀(北野収)
あけましておめでとうございます。
いきなり私事で恐縮だが、妻の実家は江戸時代初期以来の上総の一地区の旧家であり、明治に入ると、ある商売を開業した。それは大正~昭和末期にかけて、それなりの規模を誇った地域ビジネスであった。高度経済成長の頃は、多くの従業員や季節労働者(毎年能登から手伝いに来る人もいた)が事業所の敷地内で寝泊まりする繁盛ぶりであった。大勢の使用人と昼食専門のお手伝いさんを抱えていたが、家族も三世代同居の大家族で、二世代目は五人兄弟だった。家族だけで十数人、泊まり込みの従業員の人数の「まかない」の世話はほとんど長男のお嫁さん(妻の母、私の義母)がこなしていた。明治生まれの夫の両親の世話はさぞかし気を使ったことだろう。もちろん、本業としての会社の経理や事務全般も担当していた。毎朝五時前に起き、床に就くのは夜遅く。「若社長の奥様」「地域の有力者の奥様」といったら聞こえはよいが、戦前以来の家父長制とイエ制度の下で、現代の人々には想像もつかない「奴隷労働」を強いられていた。過労がたたってか、義母は早くして亡くなった。
前置きが長くなった。おせち料理は普段、昼夜を通じて休む暇もないこのような女性を、正月ぐらいは家事から解放するために、日持する食品を年内に作り置きすることから始まったという。
私が結婚したのは、バブル経済の頃であった(高度経済成長末期から20年後)。その頃は、もちろん妻の実家でも、既にガス式のユニットバスになっていたが、かつては風呂も薪で焚いていた。風呂焚きの準備は、使用人も手伝っていたそうだ。薪割りや風呂焚きを手伝ってくれていた使用人も正月は実家に帰る。だから、元旦には風呂には入らないという習慣が、かつてはあった。義理の両親は、ユニットバスの時代になっても、元旦には風呂に入らなかった。元旦に風呂に入らないのは、使用人たちへの気配りと感謝の表現だった。
おせち料理とて同じであった。義母の最晩年、正月に妻の実家に行くと、正月の七日間、ひたすら同じ料理と雑煮を食べた。正直、内心では「もう飽きた」と思ったこともあった。だが、昔の商売や大家族時代の暮らしぶりを知るにつれ、そんなことを言ったらバチが当たるように思うようになった。
正月というと、自分自身の忘れられない思い出がある。今では信じられないことだが、私が小学生低学年だった頃(1970年前後)、正月には凧あげ、コマ回し、羽根つき、すごろくといった正月遊びは近所でまだごく普通にあった。私が一番ハマったのは凧あげであった。凧自体は家にあるのに、凧あげができる空き地はそこら中にあったのに、なぜか凧をあげるのは年明けまで待っていた。私は、子どもが使うにしてはかなり大きな、武者が描かれている四角い紙の凧を大事に保管していた。年末になると、おもむろにそれを出して、破れている部分を補修したり、新聞紙を切って「しっぽ」を取り付け、正月に備えた。私と友人のN君は、日が完全に沈むまで凧揚げに没頭した。その凧はとにかく高く上がった。凧ひもを幾セットも継ぎ足した。私以外の男の子も凧遊びをしていたが、三が日を過ぎると、外で凧あげをする子どもは少なくなった。というよりいなくなった。二月近くになると、私もさすがに、凧あげを続けることが気恥ずかしくなり、「来年の正月を楽しみに」しつつ、凧を保管した。そんな自分も小学校高学年になると、塾通いに駆り出され、凧あげのことは忘れてしまった。大きな武者絵の凧は知らぬ間に母親が処分してしまった。
最後は年賀(参り)である。その基本型は、地域共同体内で対面で新年の挨拶に伺うことであったと思われる。地域共同体だけでなく、弟子が師匠の家に新年の挨拶に出向くことも年賀である。旧家の長男であった義理の両親は正月の三が日は家にいた。それは年賀に来る来客への応対のためである。当然、そこには義母によるお茶や茶菓子での応対も含まれた。大学教員・弁護士をしていた実父のところには、正月二日になると、朝から夜遅くまで、お弟子さんや学生や卒業生が入れ替わりお年賀にやってきた。綺麗な晴れ着姿の女性もいた。子どもだった私はそこには加わることは許されなかった。毎年私にプレゼントを持ってきて下さったお客様にお礼とご挨拶を済ませると、別室で本を読んだりしていた。ちなみに、そのプレゼントは昆虫図鑑、植物図鑑、動物図鑑など小学館の図巻シリーズであった。このことは、私のその後に人生に大きく作用した。プレゼントのほかにも、実は大きなお楽しみがあった。それは終了後の「残飯処理」である。滅多にお目にかかれないウニや大トロなどの特上鮨にありつけた。
今ではお年賀の挨拶回りどころか、年賀状すら、過去の遺物になりつつある。良し悪しの価値判断は脇に置いたとして、半世紀前の高度経済成長末期といえども、いや、「狂乱」ともいうべきあのバブル経済期においても、正月はまだまだ正月らしかった。
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