2026/7/21 - DoTTS Faculty 教員コラム
語りえぬものが遺した何か―今は亡き恩師たちとの時間をめぐって―(北野収)
高校生や大学生には、以下の文章はおそらく理解しがたいだろう。しかし、たとえ直接的には理解できなくとも、言葉の背後から受け取ることのできる「何か」は必ずある。その「何か」を伝えるためのメッセージとして、老人の回顧録を読む価値はあると私は思う。1990年代、すでに30歳代になっていた私は、二度にわたり米国ニューヨーク州の大学に留学(進学)した。学業を終えたのち、最初の大学に奉職したのは、私が40歳になる年であった。
1.ニューヨークの20世紀の知の巨人たち
著作『全体主義の起源』や『人間の条件』で知られるドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906–1975)は、ユダヤ人問題を論じる際に必ず参照される20世紀思想史の巨人である。アーレントは米国への亡命後、ニューヨーク市マンハッタン区にあるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(現ニュースクール大学)で教鞭を執った。そのニュースクール大学から地下鉄でわずか6駅北上した場所に位置するコロンビア大学には、パレスチナ人文学者であり『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などの著作で知られるもう一人の知の巨人、エドワード・サイード(Edward Said, 1935–2003)がいた。ユダヤ・パレスチナ問題を考察する上で、この二人の業績を避けて通ることはできない。アーレントとサイードの間に直接的な交流があったかどうか、私は確証を持たない。
しかし、ここで私が問題にしたいのは、①知の巨人との直接的なコンタクト、②彼/彼女らを隔てる物理的距離、③対面や書物から得られるもの、でもない「何か」である。
2.亡命知識人のコミュニティとニューヨーク
戦後のニューヨークには、アーレントやサイードをはじめ、ヨーロッパ・中東・その他の地域から多くの知識人が亡命あるいは移住し、濃淡の差こそあれ独自の知識人コミュニティを形成していた。ここで取り上げたいのは、異端の経済思想家・経済人類学者であり、代表作『大転換』で知られるカール・ポランニー(Karl Polanyi, 1886–1964)である。「市場は自然に生まれたのではなく、国家によって“作られた”制度である」と喝破したポランニーは、21世紀に入ってから再評価が進んだ思想家である。ハンガリー出身の彼もまた、広い意味での「亡命者」であった。
ポランニーは無類の愛妻家であったが、妻イロナ・ドゥチンスカがオーストリア共産党の創設メンバーであったため、冷戦期の安全保障審査に抵触し、シカゴ大学の専任教員採用は取り消されてしまった。時代はまさに冷戦の最中であり、この政治状況が彼の学術キャリアを大きく制約した。米国の大学で専任教員になる道は絶たれたポランニーにとって、それでも、ニューヨーク市は研究を続けるための最良の環境と映った。亡命知識人が集う都市の知的ネットワークは、彼の居場所のひとつだったのかもしれない。そのため、彼は同市のコロンビア大学で生涯にわたり非常勤講師として勤務し続けた。だが、(妻の政治歴から)米国から在留許可が下りず、居所のカナダからニューヨークに通勤する日々であった。皮肉にも、彼が学術的な世界的名声を確立したのは、没後半世紀を経た21世紀に入ってからであった。
私自身にとっても、グローバル経済の構造を理解するうえでポランニーは避けて通れない存在であった。同時に、民族や国家の構築性を考えるためには、サイードらが展開したポストコロニアル思想を学ぶ必要があった。さらに、同じ知的地平に位置する著作として、近代国民国家を「自分たちは同じ国民であると人々が想像することで成立する、作られた共同体」として捉えた『想像の共同体』を著した米国人の歴史学者ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson, 1936–2015、後述)の議論にも触れざるを得なかった。そして、大衆や庶民が集団で「暴力」に加担する今日の情勢を理解するためには、アーレントの「凡庸な悪」概念を知ることが不可欠であった。
3.恩師ヴィエトリス先生をめぐる回想
私の恩師の一人、トーマス・ヴィエトリス先生(Thomas Vietorisz, 1926–2019)は、カール・ポランニーと同じハンガリー出身であった。1947年に渡米し、マサチューセッツ工科大学(MIT)で化学修士、ついで経済学博士を取得したのち、長らくニュースクールで都市経済学を講じ、経済学部長も務めた。
先生は、ポランニーと同様に当時としては異端とみなされるタイプの経済学者であり、市場の暴走を「手なずける(taming)」主体としての国家と市民社会の役割を重視していた。日本研究者ではなかったが、戦後日本の経験に深い関心を寄せており、だからこそ私のような学生を拾い上げてくださったのだと思う。授業中にはしばしば「日本語ができたらどんなによかったか」と口にしていた。もちろんそれは私と話したいからではなく、日本語文献をもっと読みたかったという意味である。先生からいただいた学恩は書き尽くせないほどで、ここでは触れない。先生は、ニュースクールと並行して、コロンビア大学(1973–76、1996–2005)、後年はコーネル大学でも教鞭を執った(三校ともニューヨーク州であることに留意せよ)。
留学中は勉強に追われ、周囲や専門外のことを深く考える余裕がなかった。しかし最近になって、ふと胸に去来する思いがある。ヴィエトリス先生は、ほぼ確実にハンナ・アーレントと面識があったはずだ。哲学科のアーレントがアイヒマン裁判をめぐって学内外の渦中にあった時期、先生はニュースクールの経済学部長を務めていた。ドイツ語を自在に操った先生のことだ、学内の廊下でアーレントとドイツ語で立ち話を楽しんでいたかもしれない。あるいは、当時の同僚の一部と同様に「反アーレント」派であった可能性もある。もしそうだとすれば、その理由はどこにあったのだろうか。先生とカール・ポランニーは年齢が大きく離れており、先生がニューヨークに移ったのは1963年であるため、コロンビア大学で直接の接点はない。それでも、同郷の大先輩であり、比較的近い学派に属する後輩として、先生は存命中のポランニーのことをよく知っていたに違いない。こうしたことを、なぜ私は先生がご存命のうちに尋ねなかったのだろう。アーレントについても、ポランニーについても、先生の口から直接聞ける機会は確かにあったはずだ。思い返すたびに、当時の自分の視野の狭さを恨むばかりである。
4.日本国憲法起草委員だったもうひとりの恩師エズマン先生
一度目の留学時にお世話になったもうひとりの恩師、ミルトン・J・エズマン(Milton J. Esman, 1918–2023)先生は、行政学の大家であり、開発途上国の行政・農民組織を研究した開発行政学(development administration)の中心的存在であった。
私は月に一度、先生の研究室に「遊び」に行き、日本の政治情勢などについて雑談する時間を楽しみにしていた。一度目の留学当時、私は日本政府の現役の官僚であった。流暢ではないが、先生は日本語ができた。第二次世界大戦期、米国のエリート層には「敵国語」を学ぶことが求められた者が少なくなく、エズマン先生もその一人であった。
先生は1942年に名門プリンストン大学で政治学博士を取得し、その直後に米陸軍へ入隊した。軍の要請によりハーバード大学で日本語を学び、のちにGHQ(連合国軍総司令部)政府部の中尉(Lieutenant)として来日した。年齢は28歳前後である。先生は日本国憲法草案作成に関わった若い将校の一人であった。先生の没後に資料を調べてみると、当時の先生が二つの点を深く気にしていたことがわかった。①日本の官僚機構(おそらく軍部を含む)が再び暴走し、軍事国家へ傾斜しないよう、制度的な歯止めが必要であること。②敗戦国とはいえ、外国人である自分たちが中心に短期間で憲法を起草することへの道義的な呵責。
私が知るエズマン先生は、穏やかで誠実なリベラル派の平和主義者であった。その姿勢は、戦後日本の制度設計に関わった若き日の経験と、深い倫理的自覚に裏打ちされていたのだと、今になって思う。留学していた頃、先生の日本国憲法起草の裏側の話を尋ねたら、いろいろ教えてくださったに違いない。
エズマン先生と前出のベネディクト・アンダーソンは同じ大学の同じ学部の同じ学科の同僚だった(コーネル大学・文理学部(教養学部)・政治学科)。アンダーソンと私は、学内ですれ違っていただろうし、何なら、研究室に尋ねに行くこともできた。でも私がアンダーソンの『想像の共同体』に出会ったのは、私が40歳代後半になってからのことであった。
またもや、思い返すたびに、自分の視野の狭さ、浅はかさを恨むばかりである。
5.むすび:会話・文章・体験・時代を超えて存在する何か
多分に懐古趣味めいた響きを帯びるこの文章を書いているのは、私が有名人と知り合いだったという類の自慢話をするためではない。人生における「出会い」の重要性を、私のような者が声高に説いたところで、誰も耳を傾けてはくれないだろう。しかも私は、その出会いを十分に活かしきれず、いまになって悔やんでいるような人間である。
「亡命知識人」としてアーレントやポランニーと同じ空気を吸ったヴィエトリス先生、日本国憲法を起草したエズマン先生、その周囲にいたアンダーソンやサイードたち。私は、これらの巨人たちから学ぶべきことの千分の一も学んでいない。ただ、ヴィエトリス先生、エズマン先生と何時間にもおよぶ語らいのなかで、言語化されることのなかった「何か」が確かに存在した。60歳代半ばになった今、その「何か」にようやく気付いた。そして、二度の留学で私が得た最大の財産は、まさにその「何か」であったのだと確信するようになった。二人の先生のお顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
繰り返すが、これは自慢話ではない。学びや知の伝達には、発話やテクストといった言語化可能な情報だけではなく、その時代を生きた者、その場にいた者しか発することのできない「空気」「オーラ」が確実に存在する。それは、現代のインターンシップ、ボランティア、サービスラーニングの経験から得られる「何か」とも、実務的なスキルとも、本質的に異なるものである。
このことを踏まえるなら、大学という場所や制度の存在論は、いま一度根本から再考されるべきだろう。この意味において、(時代錯誤と罵られようとも)大学は大学であり、大学は学校ではない。
参考文献
ギャレス・デイル『カール・ポランニー伝』若森みどりほか訳、平凡社、2019年。




前の記事
次の記事