2024/10/17 - DoTTS Faculty 教員コラム
30年ぶりの再会(北野収)
夏のゼミ合宿で熊本県との県境にある宮崎県の中山間地域に行った。阿蘇くまもと空港で解散した後、私はJR豊肥本線の肥後大津駅に移動した。これから、大分県の野津(現臼杵市)の実家で農業をされている元上司を訪ねるのだ。私が農林水産省に勤務していたのは約10年間、そのうちの2年3か月は係長として構造改善局(現農村振興局)で地域活性化や村づくりの仕事をした。その時の直属の上司だったRさんとの30年ぶりの再会である。
列車が待ち合わせの駅に近づくにつれて、なぜかどきどきしてきた。そして、車内出口の窓から改札口に立つ元上司の姿がすぐに目に入った。Rさんは浅黒く日焼けし、頭が真っ白になっている以外は、現役時代とほとんど変わらない。80歳になっても、中山間地で毎日農作業をされているせいか、本当にお元気そうであった。
積もる話は山ほどある。2泊3日の滞在で、互いの30年間、合計60年分の「情報交換」をした。もっとも、共通の元同僚たちの「その後」の話を含めたら百年分ぐらいの話をしたはずだ。Rさんのご家族や生い立ちの話も伺った。はじめて聞く話もたくさんあった。
Rさんは苦労人だった。実の父は徴兵され戦死し、きょうだいと一緒に実母の再婚相手である義理の父の下で育った。時代が時代だから大学進学は一般的ではなかったが、それでも、R青年は大学進学をしたかったそうだ。だが、父親はそれを許さなかった。そこで農業高校に進学し、初級職の国家公務員として地元大分の事務所に配属された。向上心からだろか、Rさんはその後中級職(現在の一般職)の試験に合格し、熊本市にある九州農政局に異動された。上級職(現在の総合職)の試験も受けたが、叶わなかった。
その後、東京の本省に異動になり、40年以上にわたる役人人生の大半は東京だったことになる。構造改善局は出張が多い。私ですら、僅か2年3か月の間、北は稚内から南は奄美大島、沖縄の離島まで出張をした。40年間の間に、仕事でRさんは、佐渡と北大東島以外の日本はすべて行ったという。それと、ヨーロッパ、アフリカにも視察や調査に行っている。上級職・総合職の技官でも部長職に就けない人もいるなか、Rさんは名古屋の農政局の部長として役人人生を全うされた。
Rさんの専門は、公共事業である農村整備の計画策定や事業評価に必要な調査である。いわゆる「計画畑」の専門職だ。現役中に技術士の資格もとられた。役人というと、高級官僚のイメージ(天下り、政治家への転身など)が浮かぶ人が多いかもしれないが、実際の行政を支えている大多数は、自身の持ち場で真面目にこつこつと仕事をされているRさんのような人たちだ。だが、このような官吏の仕事ぶりについて、大多数の人々は何も知らない。
Rさんは、私より一足先に別のところに異動していったから、私がRさんと一緒にいたのは僅か1年半だった。私は翌年の1994年からアメリカ留学に派遣された。しかし、Rさんのお宅や車中で積もる話を交わしながら、私は、自分が思っていた以上に、Rさんからさまざまなことを学び受け取っていたことを自覚するようになった。
それを言葉で表すことはできない。私は「計画畑」の人間ではなかったから、専門性というよりは、人間の生き方のようなものに関係することである。人から学ぶことの重みは、その人と一緒に過ごした時間の長さにはまったく無関係である。そのことを思うと、私たちが、大学で一緒になった学生と過ごすのは、4年間、あるいはゼミでの2年間だが、「重み」という点で、私はRさんの足元にもまったく及ばない。そう、「重み」には時間の長さも学歴もまったく関係ないのだ。
大分では、Rさんの畑を見せてもらったり、大分が生んだ大横綱双葉山の生家や宇佐神宮を見学したり、いろいろ案内していただいた。帰りは大分空港からの帰京となった。Rさんご夫婦が車で空港まで送って下さった。「また来ます」と言った。それは社交辞令でなく、本当にそう思ったからだった。
そういえば、Rさんはカラオケが抜群に上手かった。滅多に歌わなかったが、歌うと皆がしーんとなって聞き入るほどの上手さだった。私はカラオケが苦手だが、今度は大分でRさんの歌を聞いてみたくなった。