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2024/1/15 - DoTTS Faculty 教員コラム

距離のはなし(大澤舞)

白いスニーカーの「白」を維持したまま履くのはなかなか大変である。

授業中、学生のアディダスが毎週きれいな状態だったので、「きれいに履いているね」と声をかけたら「はい、結構(白を維持する)努力してるんです」と教えてくれた。(授業中に何の会話してるん)

私の白スニーカーは、娘に踏まれることでつま先がちょっとずつちょっとずつ汚れていく。踏まれても痛くはない。だけど、踏まれるたびになんかちょっと「おいっ」と思う。汚れるたびに「おいっ」と思う。大人気ない。拭けばいいだけなのだけれど、拭いても拭いても踏まれて汚れるから、そのたびに「おいっ」と思っている。

娘は私のつま先を踏んだことに気づくと「ごめんね」と言うのだけれど、それでもやっぱり繰り返し踏む。

なぜ汚れるのか、それは踏まれるからなのだが、なぜ、娘は私のつま先を繰り返し踏むのか。なぜ「おいっ」と思うのか、それは、私が大人気ないからなのだが、なぜ私は自分の愛する娘に「おいっ」と思うのか。

(つかまり立ちを始めたばかりの頃。すでに母の白スニーカーは汚れている。娘が踏んでもいないのに。「おかーさんのつま先が汚れるのはアタチのせいではありません。」と言われそう。)

夫(同業者)は、毎朝、大学前の某シアトル系コーヒーショップでグランデサイズのカフェアメリカーノを購入し、研究室に向かう。

ある日、帰宅した夫が「今朝ね、注文するためにカウンターの前に立ったら、店員さんがさ」と、いつもの愚痴めいた話をするときの口調で話し始める。「いつもありがとうございますと言ったあとにね」(うん)「ボクが注文を口にする前に、アメリカーノでよろしいですか?って言うんだよ。」

某シアトル系コーヒーショップは、接客マニュアルというものを持たず「誰もが自分の居場所と感じられるような文化をつくる(当該ショップ Our Mission and Valuesより)」ことを大切にしており、それに準じてスタッフが各々で接客方法を考えているのだという。もしかしたら「常連さん」が「いつもの!」と言ってもオーダーが通るかもしれないほどにスタッフがお客さんを覚えていることが多い。

「ボクが注文する前にだよ?そう言われちゃったらさ、アメリカーノ以外頼めないよね。」(ほら、来た。愚痴が来た。)

「でもさ、アメリカーノ以外、頼まないよね?結局、アメリカーノでいいんだよね?」と私が聞く(というか、それ以上愚痴るような話じゃないよねと牽制している)。

「まぁそうなんだけどさぁ。なんか、近すぎちゃって。朝はもっとさっぱりがいいじゃん。」(知らんがな)

***

また、こちらの感受性の問題だったか。心の狭さのせいで、いつもいらいらしてしまう。やはり、相手のせいではなかったのだ。

山崎ナオコーラ『美しい距離』 

***

「来店予約をしてからお越しください」と言われているお店がある。予約しなければ行けないというわけではないが、目当ての商品を確実に手に取るためには、予約をした方がいいのだろう。いつもはショーケースの中を眺めてから「これかなぁ」と決めていたので、予約したことがなかったけれど。

購入するつもりで、実際に見せてもらいたい商品があり、予約をしてお店を訪れた。

担当のスタッフさんが予約時に伝えた商品を出してくれる。試着して、サイズを確認して、購入する旨を伝える。商品を包んでもらう。支払う。受け取る。お店を後にする。

入店してからお店を後にするまで時間にして10分程度。丁寧な接客を受けて、何の不満もなく、スムーズに目的を達成する。娘を抱っこしての買い物だし、購入予定のものは決まっていたし、とてもありがたい。うん、ありがたい。しかし、なんとなく、なんとなく、杳として我が心持ち。

「プロって感じだよね。必要最低限、こちらが求めているものを提供することに徹していて。欲しいものちゃんと買えて、ささっと済んだし。」と夫が言う。「アメリカーノ以外頼めないよね」とある日の接客方法をぼやいていた口が、今度は、他の選択肢の可能性がなかったことを気にも留めない。おかげで私の「なんとなく、なんとなく…」の正体が明らかになる。

確かに、目的のものがあり、それを買いにいったのだけれど。きっと、私は、いつものようにショーケースの中をただ覗き込んで、これもいいな、あれもいいなとする余白がほしかったのだ。

「でもさ、今日購入したもの以外は、買わないよね?」と、ある日の自分の声が聞こえる。

「まぁそうなんだけどさぁ。なんか、ちょっと(お店に?スタッフさんに?)遠さを感じちゃって。」と、心の中でぼやいてみる。

***

ただ、どうしてだか、「上から話されている」といつも感じる。丁寧に説明をしてくれようとする感じが、こちらからすると下の人間として扱われていると思えてしまう。妻は(中略)感謝しているらしかった。「上から話されている」と感じるのは、やはり、こちらの感受性の問題なのかもしれない。

山崎ナオコーラ『美しい距離』

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今日も娘は私の白スニーカーのつま先を踏む。スニーカーは汚れ、母は「おいっ」と思う。

母のお腹の中で10ヶ月ほどを過ごし、自分の足で歩き始めるまで母の腕の中で多くの時を過ごし、すっかり自分の足で歩けるのに、いまだ抱っこしてと手を伸ばす。母子一体感に安寧を得る2歳10ヶ月の娘にしてみたら、母に対してパーソナルスペースを確保しなきゃいけないなんて、そして母からパーソナルスペースを確保されるなんて意味わかんないと言いたくなるだろう。限りなく近く、できるだけくっついてなんぼなのだから。

だから踏む。踏もうなんて思ってないのに、どうしても母のつま先を踏んでしまう。

それをわかっているのに、なぜ、踏まれるたびに「おいっ」と思うのか。どうやら私は、誰に対しても、それが娘であったとしても、当たり前のように互いにパーソナルスペースを尊重し合おうじゃないかと思っているようである。もちろん、そのスペースは、相手や時と場合によって延縮させるものであるから、いまの娘と私の境界はないに等しいくらいに近いけれど。しかし、あるかないかと言えば、ある。そこに境界はある。

だから、私はスニーカーのつま先を踏まれるたびに、黙って「おいっ」と思うのである。2歳の娘に「パーソナルスペースというものがあってね」と説くのはまだ早い。(当たり前だ)

(母友人宅にて。自分の写真を撮ってくれている10歳児を撮る2歳児。母の膝に自分の体をくっつけてカメラを構えていることがわかる。最近は、母を被写体にする時も、無駄なアップや顔の一部だけなどではなく、なかなかいい画角でピントを合わせられるようになってきた。)

数名の学生から、人間関係に関する相談が立て続けにあった秋学期。それぞれ別のケースだけれど、どの場合も、言うならば「距離」のはなしである。そんなことがあったから、今回は私の距離のはなし。

距離に関する本はあったかなと自らの読了本を振り返り、山崎ナオコーラの『美しい距離』を何年振りかに開いてみる。最初に読んだ当時、なんて皮肉なタイトルかと思い、そして主人公の思考の「美しさ」に虫唾が走ったことを思い出す。でも、それも、こちらの感受性の問題かもしれない。


近いことが素晴らしく、遠いことは悲しいなんて、思い込みかもしれない。

山崎ナオコーラ『美しい距離』


ちなみに、『美しい距離』の文脈と、この小文や学生たちからの相談内容との関連は一切ない。引用した表現を各自の文脈にあてて解釈してみたら面白いんじゃないかなと、ただそれだけ。