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2026/3/5 - DoTTS Faculty 教員コラム

北タイの雲南人集落─トランスナショナルな人の移動と文化について考える(須永和博)

「人はいずれかの国家に帰属している」。一見、疑いようのない前提のように思えるかもしれません。しかし、大学時代にタイ北部の少数民族の村を訪れた際、私はこの「常識」を揺さぶられる経験をしました。

 中国・雲南省からタイ北部にかけては、広大な山岳地帯が広がっています。かつてこの地域では、国境線とは無関係に、人々の移動が活発に行われていました。私が訪れた村には、ラフと呼ばれる民族が暮らしており、高齢の男性のなかには雲南方言の中国語を話す人もいました。話を聞くと、もともとは雲南省の山間部に住んでいたが、山の尾根伝いにミャンマーを経てタイへと移り住んだのだといいます。当時、村の人々はパスポートはおろか、タイ国籍すら持っていませんでした。いずれの国家にも属さず、焼畑による自給自足的な暮らしを営んでいたのです。

写真1: ラフの村(タイ国チェンライ県、1998年)

 この東南アジアの山岳地帯を、歴史学者・人類学者のジェームズ・C・スコットは「ゾミア」と名づけました(スコット, 2013)。ゾミアとは、この地域の少数民族の言葉で「奥地に暮らす人々」を意味します。従来、こうした山地の人々は「文明化から取り残された存在」と見なされてきました。しかしスコットはそうではなく、課税や徴兵などの国家権力から距離をとるために、あえて山地での暮らしを選んだのだと論じました。つまり、「文明(国家)の欠如」ではなく、「文明(国家)からの逃避」という主体的存在として解釈したのです。言い換えれば、東南アジア山地の地理的環境は、国家権力から距離をとろうとする人々にとって、アジール(支配の及ばない自由な空間)として機能してきたといえるでしょう。

 先日、タイ北西部メーホンソン県にある雲南系漢人の集落を訪れる機会がありました。メーホンソン市内から45キロ、険しい山道を登った標高約1700メートルの場所にあるラックタイ村です。現在は、本場の雲南料理や中国茶を楽しめる観光地として知られ、「山の中の中華街」といった雰囲気を漂わせています。

写真2:観光客向けの宿泊施設が立ち並ぶラックタイ村の風景(2026年2月)

写真3:「中華らしさ」が演出されたレストラン・土産品店(2026年2月)

写真4:茶畑の中のリゾート(2026年2月)

写真5:雲南風タイスキ(2026年2月)

写真6:発酵茶葉のサラダ(2026年2月)

 しかし、その華やかな印象の背後には、国境を越えた移動の歴史があります。

 20世紀前半、中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党との間で内戦が続いていました。1949年に中華人民共和国が建国されると、敗れた国民党軍の多くは台湾へ渡りましたが、雲南省に駐留していた一部の兵士とその家族は南下してミャンマー領内の山地に逃れました。そして、政情不安からミャンマー側に逃れてきた一般の雲南人らとともに、密かに「大陸反攻」を掲げる軍事拠点を築いたのです。

 しかし、ミャンマー政府が彼らの存在に気づくと、安全保障上の脅威とみなし、国連を通じて退去を求めます。その結果、彼らはさらに南下し、タイ領内へと移動することになりました。こうしてタイ・ミャンマー国境の山間部に、国民党軍兵士を中心とする雲南系漢人の集落が形成されたのです。

 では、タイ政府は彼らをどのように受け入れたのでしょうか。東西冷戦の真っ只中だった当時、タイ政府は山岳地帯に潜伏する共産ゲリラへの対応に苦慮していました。また当時勃興していた、麻薬組織の活動にも頭を悩ませていました。そこで、軍事経験を持つ雲南系漢人に白羽の矢が立ちます。彼らはタイ政府の要請を受け、国家の統治が十分に及んでいなかった山岳地帯に駐留し、共産ゲリラや麻薬組織の掃討にあたりました(注1)。そして、その功績が認められ、1986年、タイ政府から「ラックタイ(タイを愛する)」という村名を授けられました。そこには、「タイ国を守った人々の村」という意味が込められています。

 国家権力(中国共産党)から逃れるために山地へと移動した人々が、今度は別の国家に包摂され、その国家を守る側へと組み込まれていく。かつて国家権力が及びにくい空間だったゾミアも、20世紀後半になると次第に国家の統治の網の目に取り込まれていったのです。

 今日、雲南系漢人の村々は「中国らしさ」を体験できる観光地として多くの人々を惹きつけています。しかし、その歴史的背景を知れば、そこで味わう雲南料理や中国茶の意味も少し違って見えてくるのではないでしょうか。そこにあるのは、国境を越える移動と、国家とのせめぎ合いのなかで形づくられてきた歴史の産物です。

写真7:2008年頃のラックタイ村。まだ観光客向けの宿泊施設はほとんどない(2008年1月)。

写真8: 2008年当時は、村の歴史を紹介する資料館があった(2008年1月)。

写真9:村の歴史を伝える絵画(2026年2月)

 雲南からの移動は、国民党軍兵士だけに限られたものではありません。タイ北部には、雲南系ムスリムと呼ばれる、雲南にルーツをもつイスラム教徒のコミュニティもあります(注2)。彼らは、古くから雲南と東南アジアを結ぶ地域間交易を担ってきた人々として知られています。ラバや馬による隊商で、国境を自由に行き来してきたのです。

 チェンマイ市内には、彼らが集うバーンホー・モスク(王和清真寺)があります(注3)。この地域には、19世紀後半から交易に従事する雲南系ムスリムの人々が集まるようになり、政情が不安定化する20世紀後半に来住者が増加していったそうです(王 2011: 220-222)。周辺には、雲南系ムスリムの人々が営むハラール食堂が立ち並び、礼拝日の金曜日には朝市も開催されます。最近では、雲南系ムスリムの人たちの食文化を求めて、観光客も数多く訪れるようになっています。

写真10:バーンホー・モスク

写真11~13: モスク周辺の朝市の様子。羊肉の腸詰や干肉、漬物などが売られている。

 北タイ名物の一つに、カオソーイという麺料理があります。ココナッツミルクとカレーペーストで味付けしたスープに、卵麺とカリカリに揚げた麺が入った料理です。世界の食文化を紹介するウェブサイト「TasteAtlas」で、麺料理ランキングの1位を獲得したこともある人気メニューです。

 カオソーイは、今日北タイを代表する料理ですが、この料理を紹介したのは雲南系ムスリムの人たちだと言われています。雲南系ムスリムの人々が、隊商で移動生活を送っていた際にミャンマー領内でココナッツミルクを使用した麺料理に出会い、それを自らの食文化に取り入れ、北タイに広まったと考えられています(Bush 2018)。

 現在では雲南系ムスリム以外の店でもカオソーイを提供していますが、具材は鶏肉か牛肉が中心で、ムスリムが禁忌としている豚肉を出す店はほとんどありません。そこには、雲南系ムスリムがこの料理を伝えたという記憶が今も息づいています。

 

写真14:モスク近くのハラール食堂で食べたカオソーイ。付け合わせのからし菜の漬物、ライム、エシャロットを混ぜて食べる。

 交流文化学科の英語名称は、Department of Tourism and Transnational Studies です。私たちは移民や難民など、観光以外の国境を越える移動やそれに伴う社会や文化の再編についても学びます。

 本コラムでも紹介した通り、人の移動は近現代史と密接に関わっています。〈歴史〉というと、外交や国際関係といったマクロな視点から世界を捉えるイメージがあるかもしれません。しかし、人々の暮らしや食文化もまた、〈歴史〉のなかで形づくられてきたものです。交流文化学科では、マクロな国際関係だけでなく、人々の生活というミクロな視点から〈歴史〉を考え、そこで生まれた文化の意味を問い直していきます。

 

注1: タイ政府は、タイ・ミャンマー国境に、国民党軍から構成される雲南人集落を13箇所指定しました(王 2011: 60-61)。ラックタイ村はその1つです。

注2:どちらもタイ語では「ジーン・ホー」と呼ばれていますが、厳密には異なる民族集団です(cf. 王 2011)

注3:「バーンホー」とは、「ジーン・ホーの村」の意。

 

【参照文献】

王柳蘭2011『越境を生きる雲南系ムスリム─北タイにおける共生とネットワーク』昭和堂.

スコット、J. 2013『ゾミア─脱国家の世界史』佐藤仁監訳、みすず書房。

Bush, A. 2018. The Food of Northern Thailand. New York: Clarkson Potter.