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2024/11/21 - DoTTS Faculty 教員コラム

人種差別(北野収)

「差別は良くない」ということをあからさまに否定する人はいないが、そういう人でも無意識に誰かを、何かを差別していることがある。かくいう自分も例外ではないかもしれない。差別がいけないことは理性で理解できたとしても、それを受けた者がどのような気持ちに陥るのかを自分事として想像することは簡単なことではない。これが差別の厄介な側面の一つである。

私には、今までの人生で「これが差別」と確信した瞬間が幾度かある。一つは何度も経験してきた露骨な学歴差別、もう一つはある種の「人種差別」である。後者に関する経験について、少しだけ綴ってみたい。

大学三年次の春休み、一九八四年の二~三月の約一か月間、大学の同級生のM君と私は、当時は新興旅行メディアだった『地球の歩き方』を片手に、ダイヤモンド社の旅行商品であったアメリカ国内線乗り放題を利用して、「冒険」に出発した。国内線の航空会社は今はなきリパブリック航空、国際線は羽田発着の台湾の航空会社であった。インターネットも携帯電話もなかった時代、一ドル二四〇円だった時代、渡米ですら大きな冒険であった。この旅行のために、夏休みも、冬休みもアルバイトに費やした。着替えやら、洗剤や洗濯バサミなどが入った大きなバックパックを背負い、大きな一眼レフも携えていた。今から思えば、よくあれだけの体力があったものである。宿の事前予約は一切なし。ユースホステルや安宿を探して、空港から公衆電話をかけた。今と違って、多くの場合、一旦オペレーターが出て、相手に繋いでもらった。二人とも英語力はとんでもなく低かった。それでも、ホテルの予約や航空便に関する交渉は終始、私の担当だった。

旅程は以下のとおりだった。羽田→ロサンゼルス→サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)→サンディエゴ→(ミネアポリス経由)ボストン→ニューヨークシティ→アトランタ→メーコン→サバンナ→メーコン→アトランタ→ニューオリンズ→グランドキャニオン→シアトル→サンフランシスコ→バークレー→サンフランシスコ→羽田。メーコンでは叔父の家に、バークレーでは知り合いの日系二世ハヤシダさんのお宅に泊めていただいた。

洋楽ロック少年だった私のお目当ては、各都市でレコード店やロックグッズの店に入ることだった。まだ、CDすらなかった時代、音楽を聴くということは、三〇センチLPレコードを買うことを意味した。国内版仕様のLPは一枚組で二八〇〇円した。貧乏学生だった私にとっては、おいそれと手が出せる金額ではなかった。現地でのLPはその半額程度の価格。もっとも、ジャケットも盤厚も薄っぺらで、歌詞カードも帯も、保存用のインナースリーブも何もついていない。

二月のボストンは寒かった。日中でも零度前後。空港から予約したホテルに一泊だけとまり、翌日からユースホテルに宿を移した。高いホテルに連泊する余裕はなかった。あこがれのMITやハーバード大学のキャンパスを訪問したり、大リーグのレッドソックスの球場フェンウェイパークに行ったり、ダウンタウンの「フリーダムトレイル」を歩いたりしたと思う。私にとって、ボストンはこの旅行のハイライトだった。理由は二つあった。憧れのアイビーリーグ大学のキャンパスを歩くこと、一番好きなバンドがボストン出身のBOSTONというバンドだったからであった。

港のすぐ脇にある小さなレコード店に入った。当時のレコード店はどこでも、盗難防止のためか、入口で鞄を預けてから、売り場に入るようになっていた。入口脇のカウンターに立つ店員の背後に客から預かった棚(ボックス)があった。荷物を預けて、店内を物色したが、収穫はなかったので、何も買わずに店を出ることにした。そういうことは、それまでの都市でも何度かあった。カウンターにいたアフリカ系の大柄な男性の店員(あるいはアルバイト)は、私が預けていたバックパックのチャックを開けると、そのまま中の物を床にぶちまけて、笑った。一瞬、何が何だか分からなくなった。しかし、私はそれに抗議することはできなかった。周囲の客も見て見ぬふりをしたと思う。

ロクに英語も話せない黄色い顔をしたちびで貧相なアジア人。今から思えば、あの頃、アメリカ経済が低迷する中、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌しつつあった。膨大な対日貿易赤字と失業に怒った労働者が日本車を燃やすといった出来事が相次いだ時代。農協観光ツアーなどの日本人観光客が、ニューヨークのティファニーで元祖「爆買い」に興じていた時代でもあった。だが当時、国際情勢にほとんど関心がなかった農学生には、そのようなことは知る由もなかった。私は床に這いつくばって、散らかった持ち物を拾い集めた。

自分の存在、全人格、おそらくそれ以外も「全否定」された気がした。殴る蹴るの直接暴力はなかったが、公衆の面前で公開リンチにあったような感覚を覚えた。抗議する語学力も腕力もなかった。一番楽しみにしていたボストン散策は、今でも思い出したくもない出来事で汚されてしまった。とてつもなく嫌な気持ち…、実際にはそれ以上だが、私の貧弱な語彙で的確に表現することはできない。

仮に自分が、英語が出来ない南米の白人だったら、英語が堪能なシンガポール人だったら、同じ目にあっただろうか。「彼」は、日本人、韓国人、中国人の区別もつかなかったに違いない。いずれにせよ、ある種の「人種差別」だったのだろう。

それでも旅はまだ半ば、というよりはまだ前半。M君と私の「冒険」はまだまだ続いたのである。

ちなみに、それから数年後、中央官庁に就職した私は、今度は飛び散った書類を拾い集めるため、同僚の視線を浴びながら床に這いつくばる経験をした。私が上司に見せようとした書類を、特権官僚の彼は皆の前で宙に放り投げたのであった。