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2024/10/1 - DoTTS Faculty 教員コラム

「松山市 ロシア兵墓地訪問」(永野隆行)

 愛媛県松山市に出張する機会がありました。私にとっては初めての松山訪問となりました。出張準備で追われ、なんら予備知識もなく松山を訪問しました。松山といえば、世界の俳句都市、道後温泉、坂の上の雲、坊ちゃんの舞台、ポンジュースの街、といった印象でした。
 出張先は松山大学でしたが、宿泊先から大学に向かう道すがら、「ロシア兵墓地」という耳慣れない標識が目に入りました。なぜ松山にロシア兵の墓地があるのだろうと不思議に思いましたが、観光協会の人に伺うと実は日露戦争(1904年)の際、松山市には全国初の捕虜収容所が設けられ、ロシア兵が収容されていたとのことでした。捕虜の中には残念ながらここで生涯を終えたロシア兵もいました。この「ロシア兵墓地」には97名の捕虜が埋葬されているとのことです。松山大学のキャンパスから歩くことおよそ20分、約100柱の墓碑からなる墓地です。会議の合間に墓地を訪問したため、カメラもスマホも会議室に置いてきしまいました。墓地の写真は松山市の観光協会のウェブサイトでご覧ください。
https://www.mcvb.jp/kankou/detail1.php?sid=112&cid=1

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』に以下のような記載があります。
 「この当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。ロシア捕虜をとびきり優しくとりあつかったというよりもむしろ優遇した。その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。」

 第一次世界大戦下でも日本国内にある捕虜収容所での捕虜の処遇は極めて人道的であったと言われています。関東地方では、習志野に捕虜収容所がありましたが、最も多い時には1000名近いドイツ人捕虜が収容されていたということです(ちなみに日露戦争時には習志野にも松山と同様に捕虜収容所がありました。)。捕虜たちは文化的活動が認められ、「習志野捕虜オーケストラ」を編成、所内には「美しく青きドナウ」などの調べが流れていたと伝えられています。また習志野の一般市民との関わりもあり、「周辺の主婦は洗濯物の請負(うけおい)に収容所に通い、肉の仕入れに出たドイツ兵は肉屋にハムやマヨネーズの製法を教え、子供たちは演芸会をのぞいてドイツ兵からラムネをもらうのを楽しみにしていました」(習志野市役所「ならしのの歴史」より引用)。

 司馬の言葉を借りれば、「国際法の優等生」であった日本が、第二次世界大戦では豹変します。第二次世界大戦当時、旧日本軍による捕虜収容所は、東南アジア各地、日本国内各地に建設されましたが、そこでの捕虜の処遇は、日露戦争と第一次世界大戦のそれとは比べものにならなかったのです。シンガポールのチャンギ捕虜収容所、インドネシアのアンボン捕虜収容所などは有名ですが、そこでの捕虜虐待は、元捕虜たちの証言によって明らかになっています。日本国内にも捕虜収容所があったというと不思議ですが、これは捕虜を労働力として利用するため東南アジア各地から日本に船で移送されてきた捕虜たちの居場所でした。したがって捕虜収容所の近くには必ず工場があり、そこで捕虜たちは過酷な環境の中で労働をさせられてと言われています。
 なぜかくも捕虜収容所の光景が劇的に変わってしまったのでしょうか。その最大の理由は、上記の司馬の言葉にもある通り、第一次世界大戦まで日本は国際社会の優等生であろうとしていたということでしょう。言い方を変えると、その当時の国際社会の秩序や原理原則を受け入れ、その仲間になろうと必死だったのです。ところが第二次世界大戦では、日本はその国際社会の現状を否定し、破壊しようとしていたのです。現状を肯定し、維持しようという意識はなく、現状に不満を持ち、壊そうとしていたのです。日本は第二次世界大戦を境に、現状維持勢力から現状打破勢力になっていったのです。こうした日本の国際社会に対する認識が、捕虜収容所の運営に関わる人々に影響を与えたことに恐ろしさを感じます。
 捕虜の運営に関わってきた人々を糾弾するつもりはありません。ただ日露戦争時にロシア兵を厚遇したのも、第二次世界大戦時に連合国軍兵士を虐待したのも、同じ日本人だったということです。現代に生きる私たちは、日本が再び戦争をすることなど想像できないでしょう。この平和の尊さを理解し、大切にする日本人がまさか武器を持って他国を侵略するなど考えられません。しかし、人間とその社会というのは、いとも簡単にその考えを変えることもできるのです。個人もそうですが、行動するには、目的を実現するための能力と意図が必要です。能力は短時間では獲得できませんが、意図は一晩で変えることができます。
 捕虜収容所の歴史を私たちは知り、2度と悲劇が起こらないように常に意識していくことが大切でしょう。第二次世界大戦に行った行為について、私たちに責任はありません、しかし2度とそのような悲劇が起こらないように平和な世界を作ることに私たちの責任があるといえるでしょう。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(右)と『松山捕虜収容所日記』(左)(ともに獨協大学図書館所蔵)