2024/7/30 - DoTTS Faculty 教員コラム
学びと国境に関する雑感(北野収)
今は遠い昔の昭和の頃、日本国内で一度目の大学院生活を過ごしていた私は、先生や先輩方から、「アメリカの博士論文は日本の修士論文と同レベル。アメリカの修士論文は日本の学生の卒論と同レベル。だから、留学しても評価に値しない」という話をよく聞かされていた。たしかにその頃、海外でPh.D.(博士号)を取得して日本に帰国後、日本で2つ目の博士号を取得してから、大学の先生になるという人は少なくなかった。(レベル云々の議論は別として、学士課程、修士課程、博士課程の教育的位置づけは、日米では全く別物といってよいほど異なっている。)
時はバブル経済の数年前。日本は世界の経済大国として君臨していたかのように見えた。私が在籍していた大学(院)には、中国、韓国、モンゴル、バングラディシュ、マレーシアからの国費留学生が大勢来ていた。先生方は「日本に来るのは日本のことを学びに来ているはず」という前提で指導をされているようだった。そして、日本語で論文を書くことが当然とされていた。そのことに当時の私は若干の違和感を覚えていた。私は、親しい友人だったマレーシアからの留学生の論文の「翻訳」を手伝った。
1980年代、まだ少子化が深刻化していない頃、国内の受験倍率は高くなる一方だった(これが、1990年代以降の大学増設へとつながっていく)。なかには、日本の大学進学を諦めて、アメリカの語学スクール経由で、アメリカの大学に進学するものも出てきた。今ではこれはこれで十分あり得る選択肢だと思う。だが、当時の世間は違った。日本の受験戦争を嫌って海外に逃げた人たちとして、蔑むような風潮があった。
たしかに、まだ「グローバル化」という言葉が一般化する前の頃、「国際化」という言葉が頻繁に使われていた。そう、「国際」とは、「国と国」との関係性を表す。学問もまた、国境の中で、その国の言語を用いて行われるものとされていた。それ以外はあまり価値のないこととして見られていたのだ。
バブル経済が終わって数年経った1990年代の中~後半、私は2度、アメリカ留学をした(私の中では「留学」でなく「進学」)。そのことを喜んで下さり、応援して下さった先生方や先輩方には、アメリカに留学するのだから、アメリカのことを研究するのだと思っていた人もいたようだった。しかし、私は「日本の〇〇学」「アメリカの〇〇学」というように、国で物事を分ける風潮には興味はなかった。かねてより、「日本の〇〇学」「日本語で書かれた論文」が無条件に外国のそれよりも優れているとする根拠なき自信には欺瞞的なものを感じていた。もっとも、「アメリカの〇〇学」が無条件でそれ以外に優越するものでもないということを思うようになったのは、それから暫くして、ラテンアメリカの社会思想に触れてからである。
そういえば、2度目の渡米前に相談と挨拶にいった職場の大先輩が、「(留学先で)外国人扱いされて大アマで出してもらった学位なんか価値はないぞ。日本で努力して論文を出しなさい」と私に言ったことを思い出した。その大先輩に留学経験はなかった。そして、外国人だから甘くすることなど、実際にはあり得ないことは1度目の渡米で嫌というほど思い知っていた。「言いたい人には言わせておけばいい」と思った。
誤解を招くかもしれないが、私は「〇〇留学」という言葉がなくなることが理想だと思っている。すべて「進学」または「協定校留学」「語学研修(語学留学ではなく)」という言葉に置き換わればよいと考えるからだ。もちろん、賛否はあると思う。自分の学びの場、自己実現のための場の選択に国境はないと信じたい。