2024/1/16 - DoTTS Students 学生コラム
ゼミ主催・講演会 共に生きるか、共に死ぬか–ダニー・ネフセタイさんをお迎えして(高橋雄一郎ゼミ・交流文化学科3年、吉田葵)
2023年11月29日、高橋雄一郎(雄ちゃん)ゼミではイスラエル出身で空軍での兵役経験があり、現在秩父で家具作家をされているダニー・ネフセタイさんをお招きし、現在のガザ戦争やパレスチナ問題、イスラエルの兵役制度などについてご講演いただきました。今回はその概要についてご紹介させていただきます。
【講演内容】
ダニー・ネフセタイさん(以下、ダニーさん)は家具作家である一方、イスラエル軍のパレスチナ占領に反対し、日本では脱原発に取り組む活動家でもあり、日本全国で講演を行ったり、様々な媒体で取材に応じたりするなど精力的に活動されています。2023年10月7日以降、現在までパレスチナのガザ地区ではイスラエル軍とハマスの激しい衝突が続いています。それらを受け、講演では主に、①イスラエルの教育とそれがイスラエル人の国家観に与える影響、②イスラエルの兵役制度と生活の繋がり、③今後の展望の3点を中心としてお話しいただきました。以下、簡単にご紹介させていただきます。
①イスラエルの教育とそれがイスラエル人の国家観に与える影響
②イスラエルの兵役制度と生活の繋がり
→まず、イスラエルでは物心つく前からホロコーストを二度と繰り返してはならない、自分の身は自分で守らなければならないという自衛意識を育む教育が家庭や学校で繰り返し行われています。イスラエル国家にとってホロコーストは大きなトラウマとして残っており、ホロコーストの記憶はイスラエル国民以外のユダヤ人一人一人にも波及し刻み込まれています。ホロコーストがユダヤ人共通の痛みとして、その身体に残っているのです。
イスラエルは国民皆兵制度を採用しているため、イスラエル国籍を有している男性は3年、女性は2年間の兵役義務があり、その後も所属部隊によって異なりますが、予備役兵として原則40歳まで毎年約一か月間召集され訓練されます。そのため、イスラエル国民の多くは民間人であると同時に軍人であるといえます。軍隊が日常に溶け込んでいるため、18歳になって入隊することに疑問を持つこともなく、それはまるで私たちが小学校から中学校に進学するのに疑問を持たないのと同じような感覚だそうです。実際に、ダニーさんも軍隊(空軍)での生活を送るうちに、一生懸命に国のために尽くそうという気持ちが芽生え、気が付けば軍隊に適応した人間になっていたそうです。軍隊で培った人間関係が将来に影響することも多く、イスラエル軍を批判することが難しい社会構造となってしまっている現状もあります。
このように、兵役・軍隊・教育などは全てが日常と深く繋がっていて、その根底にあるのはユダヤ人としての自意識・プライドであり「ホロコーストを繰り返してはならない」「自分の身は自分で守るのだ」という自衛の思想であるとおっしゃっていました。
③今後の展望
→これまでのパレスチナとイスラエルの衝突や現在のガザ戦争などをふまえ、どのような解決が可能かという質問に対し、ダニーさんは対話による和平合意が必要であると強調されていました。対話はいかなる状況下でも行われなければならず、相手が悪いから、対話を試みても話にならないからという理由で対話を拒んでいる状況が現在だとしたら、そうではなく、相手にも伝わるように自分の伝え方を変えて対話をしなければならないというのがダニーさんの主張です。
例えば、隣接しているパレスチナとイスラエルの間には巨大な分離壁が建設されており、もしパレスチナ人がイスラエル側に行きたければ事前に書類を申請し、長蛇の列に並んでイスラエル軍が管理する検問所を通らなければなりません。そのため、パレスチナ人とイスラエル人が自由に対話する機会はほとんどなく、互いが互いを同じ人間であると思えなくなってしまい、相手が敵に見えてしまうのです。そして、対話の機会がないのは個人の責任ではなく国家の責任であるとも強調されていました。
【他者の「痛み」の共有とその困難】
「共に生きるか、共に死ぬか。最後は必ず共に生きることになる。」
これは、私が今回の講演を伺って、必ず心に留めておかなければならないと感じた言葉です。講演前、ダニーさんに関する記事や著書など拝読しましたが、ダニーさんは一貫して「対話による解決」を主張されています。正直、講演前までは、対話による解決は理想論であり、非現実的なのではないか。それが可能であるのならば、すでに二国家共存は達成されているはずだ。一番の問題は誰も現実的な一歩を踏み出せていないことである。というのが私の考えでした。
しかし、いざ実際にダニーさんのお話を伺うと、イスラエル軍に従軍した経験を持ち、常に「敵」「危険」「使命」と隣り合わせで生きてきたイスラエル人当事者としてのダニーさんと、それを外側で安住した場所から傍観・批判する私には、その「何としてでも平和を達成しなければならない」という切迫感や使命感に大きな乖離があることに気付かされました。
他者の「痛み」を私個人の感覚として共有すること。その「痛み」が他者の程度や形式と多少異なっても、「痛み」を「痛み」として実感すること。決して何も感じないことがないように、決して鈍感になって痛みに苦しむ人たちの手を取り損ねないように、最大限取りこぼすことのないように。交流文化学科で学ぶ学生として、そんな風に考えて学んできたつもりでした。それにもかかわらず、私にはその覚悟が圧倒的に不足していました。
極端な話をすれば、現在起こっているガザ戦争が終結せずとも、現時点では私の生活は何も変わっていないし、もし何らかの方法で解決したとしても、私には直接的な影響はありません。どこまでも他人事で、パレスチナ人・イスラエル人の「痛み」は私自身の「痛み」として感覚し得なかったのです。
私は、ダニーさんの和解への執着心と武力からの解放を決して諦めない粘り強さの根底にあるのは、パレスチナ問題の内側にいる当事者としての責任感であると思うのです。ダニーさんにとって、対話による和解というのは決して理想論、絵空事ではなく、過去の例からも実現可能性が十分にある現実的な解決策であるのです。昨日まではテロリストとされていた人が、翌日には首相になってノーベル平和賞を授与されるという、夢のような非現実的に見えるような、そんな事実もすぐそこに存在しているのです。ガザ戦争によって、もともとイスラエル内である程度の割合を占めていた中道左派の人たちが右派に傾いてしまったことに対しても、ダニーさんは少々憂いつつも「時間はかかるだろうけど、彼女/彼らもいつかは元に戻るから。目覚めるしかないのだから。」と強く語ります。
私がどれほど彼女たち/彼らと共に歩もうとしていても、理想論だと切り捨てることができること、暗闇の中で必死に見出した希望を「現実的ではない」と断罪することができること、それは私がこの問題の「外側」にいることの特権ではないかと深く反省しました。私たちが外側にいる限り、私たちはその内側にとっての「痛み」の原因であるかもしれない。常にその視点は持っているべきではないでしょうか。
最初の方で述べた通り、イスラエルでは自衛意識を育む教育が施されています。そのため、何か問題が起こった時、それを盾にして自分たちの行動を正当化し、自分たちが生き残ることが一番の目的になってしまうことも理解できます。しかし、同時に、その理解というのも、戦争を経験したことのない日本人であり非ユダヤ人である私たちの想像の範疇でしかあり得ないのだということにも自覚的でいなければなりません。私たちが他者の「痛み」を自分たちの「痛み」として感じることには限界があります。自分は自分としてしか存在し得ないし、どれほど寄り添おうとしても他者にはなれないからです。しかし、それは決して、相手の立場になって想像することを否定しているわけではなく、むしろ想像力の限界と暴力性を自覚したうえで、empathyをもって相手の立場に立つ努力をすべきです。
決して簡単なことではないけれど、いかなる状況下でもempathyを持ち続けること。想像の範疇は個人に依存し、決して他者が感じる気持ちを私たちが同じように感じることができないというコンテクストに存在する暴力性に意識的であること。それでもなお、他者の気持ちを想像しようとすることを諦めないこと。
交流文化学科での学びの原点はそこにあるのではないかと思うのです。
長くなってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また、ダニーさん、高橋雄一郎先生はじめ、本稿寄稿にあたりご協力いただいた皆様に改めて感謝申し上げます。
(文責:交流文化学科3年 吉田 葵)