2023/4/27 - News&Topics
授業紹介「交流文化の世界 第2回-人とことば-」
先週の「授業紹介」に続き、今回は交流文化の世界 第2回の授業内容を簡単に紹介します。
「人とことば」
4月19日実施 担当教員:大澤 舞(専門分野:言語学)
あまりにも身近にあって、特に意識することなく当たり前のように使用している「ことば」。外国語学習となると、途端に文法や単語、発音などに意識が向きますが、日常において、「人の言語とは何なのか」「言語(ことば)を使うとはどういうことなのか」など「ことば」について考えるということしてきていない人の方が多いのではないでしょうか。
特に、母語(第一言語)は無意識的に使用しているもの。そこに敢えて意識を向けてみませんか?という授業です。
「交流文化の世界」の授業目標の1つが「交流する文化と社会を理解する多角的な視点の存在を知る」というもの。今回の授業では、多角的な視点の1つとして、「言語(ことば)」から人(ヒト)の活動をみるという視点があるということ(つまり、言語学という学問分野があるんだよということ)を知ってもらうことが目的の1つ目。もうひとつの授業目標が「大学の学びと『語学』の意義と範囲について理解する」というもの。これに関しては、せっかく、英語やプラスワン言語を学ぶのだから、どうやったら言語学習(語学)と、大学の学びとを関連づけることができるのかということを「言語(ことば)を使える」とはどういうことなのかという視点から考えてみるというのが目的の2つ目です。
「何のために言語があるのか」と問われたら、みなさんはどのように答えますか?
おそらく、多くの方が「意思疎通(コミュニケーション)のため」と答えるのではないでしょうか。この考え方は、ほとんどの方が納得するでしょうし、共有しているものだと思います。しかし(ん?逆接でいいのかな。多くの読み手にとって、これ以降で導入するものは想定していない内容かしら。それとも、「はい、知ってますけど?」という内容かしら…)言語使用の目的の根底に「自身の思考の具現化のため」というものがあって、具現化した自分の思考を他者に伝えたり相手の思考を知ったりするために、つまり意思疎通のために言語を応用的に使用しているという考え方もできます。
今回の授業では、せっかくなので(何が「せっかく」なのか分かりませんが)、これまできっと考えてみたことがないであろう立場、「思考の具現化のために言語がある」という立場で「言語(ことば)」をみていきました。
思考の具現化のために言語があるというのであれば、言語活動があれば、そこには思考があるということになります。
フランスの哲学者(思想家)であるパスカルの言葉に「人間は考える葦である」というものがあります。パスカルは、著書『パンセ』の冒頭で、「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」と述べ、思考できるということに人間の尊厳や偉大さがあるのだということを「考える葦」ということばで言い表しています。
このように、思考は人間特有のものとして考えられていたりもしますが、にゃんこがニャーと鳴き、ハチが八の字ダンスを踊って蜜のある場所を仲間に教えていて、それが彼らの「言語」だとしたら(ちなみに、ハチのブンブンは羽音。八の字ダンスがここでいうところの言語活動)、にゃんこやハチも思考しているということになるのでしょうか。うん、「言語」をもっている以上は思考していないとはいえない。
ということは、つまり、言語はヒトの特異性を特徴づけるものではないのです。実際に現在東京大学准教授の鈴木俊貴先生の研究グループでは、2017年に「シジュウカラは異なる意味をもつ鳴き声(単語)を文法に従って組み合わせ、文章をつくることが知られるヒト以外で唯一の動物である」ことを指摘し、「シジュウカラが初めて聞いた文章であっても文法構造を正しく認識し、単語から派生する文意を理解する能力を持つ」ことを明らかにしました(https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2017-07-28 これ以降の現在にいたるまでの様々な研究成果については、ネットや新聞などにわかりやすい説明が掲載されているので読んでみてくださいね)。
では、言語はヒトだけのものではないというのであれば、ヒトもシジュウカラも「同じ」なのでしょうか。ヒトの言語もシジュウカラの言語も「同じ」なのでしょうか。この点に関して、授業では「階層性」というヒト言語のみが有する特徴についてお話しました。
ここまででずいぶん長くなってしまったので、ヒト言語がもつ「階層性」という特徴については、別の機会に譲ります。(ほぼ毎年2年次必修科目の「英語の世界I」や選択科目の「英語の世界 II」といった授業内で話しています。)
ところで、言語のプリミティブな目的が思考の具現化であるという点から考えると、雑に言うと(雑でいいのか?いや、細かいこと、注釈が必要なことなどを捨象するということね)、言語のアウトプットには、発話者の思考が反映されているということになりませんか?
ですから、特に母語(第一言語)の場合、自分の発話や思考に意識的にならずにことばを発したときには、無意識的にその言語表現に自分の思考が乗っているということになりませんか?
例えば、「夕飯に何作ろうか?」と聞かれてぽろっと出た表現が「カレーがいい」なのか「カレーでいい」なのかで発話者の気持ちが見えてくる(ことによって聞き手をイラっとさせたり喧嘩になったりするかもしれないし、しないかもしれない)とか。
1年生はこれから言語学習によって母語(第一言語)以外の言語を習得しながら、交流文化学科において様々な(学問的)知識や視点、態度を身につけたり洗練させていったりします。交流文化学科での学びと言語学習・言語(ことば)はどのように関連付けられるでしょうか。さまざまな方法があると思いますが、例えば、「言語に意識を向ける」や「言語を通じてヒトの活動(文化・社会)」を観察・分析・考察する」というようなことができると思います。
言語(ことば)に意識を向けること、そして言語からヒトの活動をみることの初歩的なレッスンとして、授業では4つの事例の紹介とそれに関連する問いをみなさんに投げかけました。ここではそのうちの3つについて簡単に紹介します。
■「ジェンダーと英語の代名詞」
以下の(1)や(2)は高校までに習ってきた英語の知識を基に考えると「おかしい」と判断されるでしょう。
(1)Did that person forget their coat?
(2)This is my friend, John. I first met them at the university. They are now a musician.
三人称単数のthat personやJohnが、規範的には三人称複数を指示する代名詞theyで表されています。実は、ここでのtheyはnon-binaryな代名詞としての働きをしています。第三者からみたら相手がどのような性自認を有しているのかわからない。当事者にとっては不本意な代名詞を使われたくない。そんなときに使用されるのがtheyです。(ただし、女性だからshe、男性だからhe、Xジェンダーだからtheyを使うということではないことに注意してください。そしてすべてのnon-binaryがtheyと呼ばれることを望んでいるとも限りません。)
代名詞の使用が活発な英語だからこそ生まれたtheyの使用方法なのかもしれませんが、仮に、日本語での場合を考えたとき、英語のtheyに対して、同じ役割をするものとして、どのような表現を用いることが可能でしょうか。
■「複数言語話者が集まったとき」
ドイツとポーランドの若者が共に演奏する青年オーケストラにおけるドイツ人指揮者が以下のように発話したときに、どのような「効果」が生じるでしょうか。
(3)Das muss fortissimo, das ganz Orchester, as much as you can. Jeszace raz.
(4)そこはフォルテッシモで、オーケストラ全体で、できる限り。では、もう一度。
(平高・木村(編)(2017)『多言語主義社会に向けて』p.203)
Das muss や das ganz Orchesterはドイツ語、fortissimoはイタリア語(音楽用語)、as much as you canは英語、そして、Jeszace razはポーランド語です。なぜ、ドイツ人指揮者はこのように、ドイツ語、イタリア語、英語、そしてポーランド語を混ぜて指示を出したのでしょうか。
■「日本語学習の意味」
最後に紹介したのは、『複数の言語で生きて死ぬ』という本(山本(編)2022)の第8章「内戦下、日本語とともに生きる-日本語を学ぶ意味」の内容です。
シリアに生まれ育ったマリアムさん(仮名)は、シリアの大学で日本語を学んだあとシリアの企業に就職しました。そして、内戦下のシリアにおいて、独学で日本語を学び続けています。シリアでは、日本語を学んだからといって就職や進学に結び付くわけでもなく、日本語の社会的需要も少ないといいます。それでも、マリアムさんが日本語に触れたときに「あ、きれい。音楽みたい」と思ったのをきっかけに、日本語が音楽のように自身の生活を豊かにしてくれるものであるからという理由で日本語を学び続けています。つまり、就職や収入のためといった何かの手段のためでも、必要に迫られているわけでもなく日本語を学んでいるのです。
交流文化学科では、英語のほかにプラスワン言語の学習が必修となっています。もちろん、それ以外の外国語も学ぶことができます。あなたにとって、もしくは、私たちにとって母語以外の言語を学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。
この『複数の言語で生きて死ぬ』という本は、交流文化学科の学びを深めていくなかで読んでみたらいいのではないかと思います(珍しく私が本をお薦めしてみる)。
長くなりすぎましたので、まとめの言葉は割愛して、ここで終わりにしましょう(突然すぎる!!)。