1. ホーム > 
  2.  DoTTS Faculty 教員コラム

2021/12/14 - DoTTS Faculty 教員コラム

私の「ソビエト体験」を振り返って(北野収)

 今から約四半世紀以上前の1988年3月、大学院で農業経済学を専攻していた私は、4月からの農林水産省への就職(実は2度目の就職)を控えて、学生生活最後の卒業旅行に出かけた。行き先は、かねてから憧れていたオーストリア・ウィーンとザルツブルグ。ベートーベンやモーツアルトゆかりの地を訪ねたり、本場のオペラを鑑賞することが主な目的だった。

 今であれば、成田からフランクフルト行き直行便に乗り、そこでウィーン行に乗り換えるのが常套だが、それは冷戦が終わり、ロシア(ソ連)の上空を西側の旅客機が飛行できるようになったからだ。冷戦最末期の1988年当時、西ヨーロッパに飛ぶには3つのルートがあった。第一は、アラスカ・アンカレッジ経由で広大なソ連および東欧を迂回していくルートである。第二は、いわゆる「南廻り」といって、インド等で乗り換えていくルート。第三は、日本からいきなりソ連(ロシア)上空に入り、そのまま西欧に飛ぶルートで、これはアエロフロート・ソビエト航空の便に限られたと思われる。

 私が買ったチケットはアエロフロートのものだった。往路はモスクワ空港内のホテルで一泊、復路はモスクワ空港で乗り継ぎ時間がおそらく5-6時間はあったと記憶する。以下、僅か十数時間の私のソ連滞在の体験を綴ってみたい。私が利用したアエロフロートは成田でなく、羽田から飛んでいたような記憶があるが、定かではない。ソビエト製の見慣れない機体の客室にはいった途端、そこは「ソビエト社会主義共和国連邦」であった。片言の日本語を話す、大柄で太ったロシア人中年女性がCAたちをしていた。機内食の配膳は、非常に荒々しいものであったが、何より驚いたのは、出来てきた料理だった。ロシアあるいはウクライナ産だと思われる「生野菜」がそのまま乗っていた。それがキュウリだったか、芋類だったか、ニンジンだったか、それらすべてだったかは覚えていない。とにかくあんなに硬い野菜は、アメリカでも食べたことがない。他の「料理」も、人間の食事として許容できるギリギリの内容・味だった。

 モスクワ空港で荷物を受け取ると、「ホテル」あるいは簡易宿泊施設のようなビルに連れていかれた。客は男女別に囚人のように2列に並ばされ、寒い中待ちつつ、チェックインをした。どうやら同性ごとに見知らぬ同士の相部屋のようであったが、幸い私は相部屋にならなかった。装飾やインテリアもない、質素な暗い部屋だったと記憶する。とにかく寒かった。空港内の施設なので、法的にはソ連に入国した訳ではない。あくまでもトランジット(乗り継ぎ)であった。

 帰路、モスクワ空港で長時間の待ち時間があったため、レストランに入った。照明がついているのに、節電のためか、ほとんど消されていて、午後なのに、薄暗かった。大柄で太ったウェイトレスらしき中年女性が大勢いたが、仲間内で世間話を何時間もしており、盛り上がった時は客目をはばからず大声で笑っていた。あらかじめ覚悟はしていたが、何十分待っても注文をとりに来なかった。しびれを切らして、一人を呼び、身振り手振りでオーダーをした。たぶん、紅茶かコーヒーだったか、軽食だったか、、、覚えていない。ロシア語のメニューは読めないし、英語も通じない。当時の私の英語もかなり酷かったと思うが、それだけでなく相手は英語が話せなかった。オーダーを入れてから、何十分もたったが、注文したものは出てこなかった。通じていなかったのか。それとも、ウェイトレスも料理人も世間話にうつつを抜かして、仕事をしなかっただけなのかは、わからない。結局、何も食べず、何も飲まず、搭乗ゲートに移動した。

 ポジティブな驚きもあった。真偽の程はわからないが、現役軍人がパイロットをしていると言われていたアエロフロート機の離発着は、ほとんど振動やショックを感じない程の神業ものだった。あんな離発着はそれ以来、一度も経験したことがない。

 今と違ってインターネットもない時代、「鉄のカーテン」の向こう側の情報は非常に限られていて、ネガティブなものばかりだった。そのような情報によるバイアスに加えて、このモスクワ体験から、当時の私は、やっぱり、社会主義はダメだ、資本主義が一番!と真剣に思っていた。

 あれから30数年が経ち、「ポスト冷戦期」という言葉すら古臭くなってきた今、世界はグローバル資本主義一色に塗り替わった。ここまで世界が変わるとは、当時25歳だった私には予想がつかなかった。当時の私は、社会主義がなくなれば世界が平和になる、人の往来が活発化すれば相互理解が深まり差別もなくなる。自由貿易が進めば人々は豊かになると、愚直に思っていたような気がする。その後、仕事でインドネシア、ブラジル、メキシコ、カンボジアなどを訪ね、2度の留学先はアメリカの田舎町の大学だった。メキシコ南部のオアハカ州にはオアハカ時間という言葉がある位、何事も時間どおりには進まない。アポイントメントがあっても半日ぐらい待たされる。それでも人々は不平を言わず、ゆっくりとコーヒーを飲んだり、散歩をしたりして、時間をつぶす。さすがに、ソ連のウェイトレスのような人はいないが、時間やサービスの感覚は現代日本人とはかなり異なる。留学や調査で訪れたアメリカやカナダの田舎や地方都市でも、ゆったりとしていて、買い物をしていてもおつりを間違えることは当たり前だが、働く人も客もとても大らかに対応している。

 ソ連型の「社会主義」が正解だとは絶対に思わないが、今日の弱肉強食で徹底的に管理されたグローバル資本主義が果たして正しかったのか?この30年間、私はずっと考え続けている。

モスクワの空港内で買った絵葉書