2021/12/10 - DoTTS Faculty 教員コラム
Should be eccentric ? (山口誠)
「われわれはなるべく変わった人になるのが望ましい」
100年あまり前のイギリスで、ある人が書いた一文です。
「変わった人」とは、どういう意味だろう、ユニーク(unique)な人か、ディファレント(different)な人、レア(rare)な人、まさかストレンジ(strange)な人だろうか――英語で書かれた原文を図書館で確認したら、people should be eccentricという表現が目に飛び込んできました。え、エキセントリック?
エキセントリック(eccentric)という語を英日辞書で引くと、「〈性格・行為・人などが〉常軌を逸した、異常な、とっぴな、風変わりな、奇矯な」などの訳語が並んでいます(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)。あまり良い意味はなく、むしろ悪いイメージが満載の形容詞です。
そういえば、社会人の会話で「あの人はエキセントリックだからね」といえば、それは誉め言葉ではなく、「変人だから気を付けてね」「厄介者だから面倒だよ」などのマイナス評価が含まれると思います。
ではなぜ「エキセントリックな人」になれと、説くのでしょうか。時代の違いでしょうか、文化の違いでしょうか。それとも、この人がエキセントリックなのでしょうか。理由は、そこに続く文章に記されていました。引用します。
「性格の強い人がたくさんいた時代や地域には、変わった人もたくさんいた。そして一般的に、社会に変わった人がどれほどいるかは、その社会で、ずば抜けた才能、優れた頭脳、立派な勇気がどれほど見出されるかにも比例してきた。したがって、現在、あえて変わった人になろうとする者がきわめて少ないことこそ、この時代のもっとも危うい点なのである。」
これは100年前のイギリスだけでなく、いまの日本の社会でも、あてはまることかもしれません。エキセントリックな人に「なろうとする者がきわめて少ないこと」こそ、懸念すべき問題である、と。
このアジアの東端の海に浮かぶ島国・日本は、「同じであること」を明に暗に要求し合う「同調圧力」の強さで知られていますが、それでも「変わった人」たちが、今も昔もけっこういました。そうしてエキセントリックな人たちが、社会に変化をもたらし、面白くしてきたことは、歴史をひも解けば明らかです。
ただし上に引用した本を読み進めると、エキセントリックな人になることは、簡単ではないことがわかります。
たとえば単にストレンジな人や、ディファレントな人ではなく、いま・ここを支配する空気を読まず、新たな思考や異なる行動を実現する人になることはなかなか難しく、まして「エキセントリックであり続けること」には、それにふさわしい才能、頭脳、勇気のいずれか、あるいはそれらのすべてが求められるようです。それゆえエキセントリックな人になろうとする人は、減ってきているのかもしれません。変人になるのも、なかなか大変です。
それでもエキセントリックな人になろうとする者が増えていけば、そこには新たな思考や異なる行動がたくさん実現されていき、やがて社会が多様化して面白くなり、豊かな世界が作り出されていくはずです。
もちろん意見の対立や見解の相違なども生じるはずですが、それらも含めた交流する文化が、社会の多様性を実現するのだと思います。
いいかえれば、「同じ」ことを求める社会よりも、「違う」ことを認め合える社会のほうが、自由な社会だと思います。そうしてエキセントリックになろうとする人たちがたくさんいて、交流する文化を実践し続けることができれば、社会の多様性がエネルギー源となり、自由な社会はもっと繫栄していくと考えられます。
「なるべく変わった人になるのが望ましい」と説く本は、『自由論(On Liberty)』というタイトルで1859年に出版されました。エキセントリックな人になることは、その個人の自由だけでなく、そうした個人たちが生きる社会の自由を実現し、いま・ここよりもさらに自由な世界を生み出す原動力となる、と著者のJ.S.ミルは述べています。
個人の自由と社会の自由を大切にして、より多様で面白い世界を実現していくため、交流文化学科での学びが、なるべくエキセントリックになろうとする人たちに役立てばいいな、と思います。そしてこの学科の一員として、ぜひとも空気を読まずに「もっとエキセントリックな人になろう!」と思いました。
そう決意を新たに図書館を出ると、なぜか冷たい空気をうっすら感じました。冬だからでしょうか。
(J. S. ミル『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012年、163頁より引用)