2021/11/25 - DoTTS Faculty 教員コラム
アメリカ合衆国の歴史を先住民の側から見直してみよう – その2 映画『駅馬車』 (高橋雄一郎)
17世紀初めに北米大陸の東海岸に植民を開始した英国系/ヨーロッパ系(注1)の移民たちは、大陸を西へ西へと移動して、領土を広げていきました。彼らが “WASP”と呼ばれた「白人・アングロサクソン・プロテスタント」(そして男性、異性愛者)であったことは前回、お話しました。ダイヴァーシティ(多様性)や多文化主義についての議論が盛んになった今日ではほとんど制作されなくなりましたが、かつて「西部劇」という映画のジャンルがありました。皆さんのお祖母さんやお祖父さんの世代には西部劇と聞くと、「荒くれた無法者(outlaw)や、正義を守る保安官といったイメージを思い出す方たちがあるのではないでしょうか。西部劇には、広大な西部の荒野を開拓していくパイオニア、入植者たちと、彼ら(西部開拓は男性の仕事と決まっていました)の行く手を阻み、卑怯な攻撃を仕掛けてくる残忍なインディアン、というステレオタイプ的でお決まりの構図がありました。
西部劇が盛んに制作されたのは第2次世界大戦前後です。アメリカ合衆国の人たちには、ナチの暴虐を食い止め、ヨーロッパの自由と独立を守った「強く正しいアメリカ」への自負がありました。西部劇は、ハリウッド映画というポピュラーな娯楽媒体を通してヨーロッパ系の移民による北米大陸の収奪を正当化していったのです。
例として映画『駅馬車(Stagecoach)』を眺めてみましょう。監督のジョン・フォード、主演のジョン・ウェインという、西部劇を代表する組み合わせによる映画で、1939年のアカデミー作品賞を受賞しています。
https://tsutaya.tsite.jp/item/movie/PTA00007YATD
舞台はまだ州に昇格する前のアリゾナ、赤茶けた砂漠に岩山が屹立する「モニュメント・ヴァレー(Monument Valley)」を背景に、ニュー・メキシコの辺境の町に向う、駅馬車に乗り合わせた9人の物語です。乗客は、アルコール依存症の医者ブーン、酒の行商人ピーコック、預金を横領して高飛びを図る銀行家のゲートウッド、不道徳だと町を追放された娼婦ダラス、騎兵隊士官の夫の許へ急ぐ身重のルーシー、ルーシーを慕うばくち打ちのハットフィールド、そしてジョン・ウェインの演じる主人公リンゴー・キッドの7人です。リンゴーは脱獄囚で、殺された兄弟への復讐を果たそうと馬車に乗り込みます。それに御者のバック(メキシコ人と結婚しています)、護衛の保安官カーリーが加わります。物語の進行とともに乗客たちの過去が明らかにされ、見ごたえのある心理劇に仕上がっています。走る駅馬車の空間は、外の社会からは謝絶され、ふだんは表出されない心理的対立が先鋭化されています。
しかし、映画『駅馬車』には、そうした白人社会のミニチュアの外に、もう一つの別の世界が設定されています。当時はインディアン(Indians)という蔑称で呼ばれていた先住アメリカ人(native Americans)たちの世界です(注2)。観客は映画冒頭で酋長ジェロニモに率いられたアパッチの集団が界隈に出没し、白人開拓者たちを恐怖に陥れていることを知らされます。恐怖は焼き討ちに遭い、皆殺しにされた開拓者の家の焼け跡を駅馬車が通ることで増幅されます。しかし先住民の姿は映画のクライマックス、駅馬車襲撃の場面まで、スクリーン上に描かれることがありません。先住民の世界は可視化されないだけに一層の恐怖として、映画の登場人物たち、そして登場人物たちに感情移入する観客の私たちを覆っていきます。
圧巻は、クライマックスの駅馬車襲撃です。雲霞の如く押し寄せる先住民の大軍を、駅馬車の乗員乗客たちが一人ずつ次々に、また正確に撃ち殺して、駆け抜ける駅馬車の背後に、累々たる屍の山が残されていきます。駅馬車は襲撃をかわして無事逃げおおせることができるのか、手に汗握る場面なのですか、見終わった後でよく考えると、どこかおかしい、そんなことはありえない場面なのです。日本語吹き替えのものがネットに出ていたのでご覧ください。
白人の銃は正確に、一発撃たれるたびに馬上の先住民を一人、倒していきます。ちょっと考えれば分かると思いますが、揺れる馬車の上から、全速力で走る馬上の標的に、そんなにいとも簡単に銃を命中させられるものではありません。そして先住民の側といえば、人数だけは山のようで、白人の数十倍もの兵力にみえるのですが、彼らはきちんと狙いをつけて銃を撃ち、あるいは矢を射ることができないようなのです。だから、白人の側は、マイナーでコミックなキャラクターである酒の行商人ピーコックが最初の矢で負傷することを除くと、これだけ圧倒的な攻撃を受けても死なずに無傷なのです。先住民は、ただやみくもに武器を振り回している、端的にいえば野蛮な、烏合の衆として描かれています。
白人の側にはそれぞれ名前があり、個性があり、一人一人に過去、人生があります。しかし先住民の側には何もありません。彼らは皆が同じようにどう猛な顔をして怖ろしい雄叫び声をあげる、集合的な恐怖としてのみ存在しています。観客はそこまでの映画の展開から、駅馬車の乗客たちの過去を知り、外見は悪人でもさまざまな苦労をして人生を歩んできた同情すべき個人として理解し、彼ら/彼女たちに感情移入していきます。しかし先住民の側には個人としての性格が何もありません。彼ら(女性の先住民は一人も登場しないので)は、映画館の観客が感情移入した白人乗客たちを襲う、圧倒的な他者、悪以外のなにものでもないのです。だから、ごきぶりのように駆除され、バタバタと殺されて行っても、憐憫の情も罪悪感も呼び出されません。開拓を旗印に進められた先住民の虐殺と西部の植民地化を正当化してきた娯楽のジャンルが「西部劇」なのです。
駅馬車の乗員乗客側が弾を撃ち尽くして、どうしようもない苦境に立たされたとき、映画は最大の山場に到達します。そこに、遠くから突撃ラッパの響きが聞こえてくるのです。騎兵隊です。駅馬車に乗り合わせた白人の乗客たちは、合衆国騎兵隊という「文明の軍隊」によって救出されるのです。
もっとも、全ての西部劇が先住民を人間以下に描いている訳ではありません。同じ監督ジョン・フォード、主演ジョン・ウェインの組み合わせでも、『駅馬車』から10年後の1949年に公開された『黄色いリボン(She Wore a Yellow Ribbon)』では、白人、先住民双方の殺戮を止めさせたいと願う、引退した騎兵隊士官(ジョン・ウェイン)と老先住民酋長の心の交流が描かれています。しかし、先住民が滅びゆく民族であり、西部の開拓、文明化を是とする歴史観は揺るぎません。
こうした白人(ヨーロッパ人)中心の西部劇に変化が起きるのは、その後、1950年代末からアフリカ系アメリカ人の権利回復を求めた公民権運動や第2波フェミニズムがおこり、マイノリティーの人権への関心が高まる以降になります。1960年代後半には泥沼化するヴェトナム戦争への反戦運動が活発化し、合衆国兵士たちに虐殺されるヴェトナムの村人たちのイメージが、ほぼ100年前の先住アメリカ人の虐殺に重ね合わされました。1864年にコロラド州サンドクリークで起きた騎兵隊による虐殺事件を描いた『ソルジャー・ブルー(Soldier Blue、1970)』のような映画も制作されました。(ソルジャー・ブルーは騎兵隊の青色の制服を指します。)西部の開拓を「正しい」とする歴史観は次第に見直されていきますが、これは、行き過ぎた資本主義と南北の格差、環境問題と地球温暖化など、植民地主義の残滓を検証する「ポスト植民地主義」の潮流として現在も続いています。ハリウッド映画では1990年に公開された『ダンス・ウィズ・ウルブス(Dances with Wolves)』が、自然と調和して生きる先住民の哲学を称揚した作品として転換点になりました。(続く)
(注1) アングロサクソン=中世5世紀以降に起きたゲルマン民族の移動に伴い、現在のデンマーク南部からドイツ北部にかけてのアングリア、サクソニーなどから、イングランドに移住してきた民族を指し、英語を母語とする白人ヨーロッパ人を指します。北米大陸への植民には、後にドイツや北欧系の人たちが加わるようになります。
(注2) 前回の投稿、「アメリカ合衆国の歴史を先住民の側から見直してみよう -その1-『ハロウィーン』と『コロンブス・デー』」の中の、次の記述を参考にしてください。「アメリカ大陸に暮らす人たちを「インディアン」という呼び方は、植民地主義の負の遺産だと考えられています。現在はネイティヴ・アメリカン(native American)とか、先住民族(indigenous people)、またカナダではファースト・ネーション(First Nation)という呼び名も使われています。ただ最近では当の先住民族の人たちの側が、自分たちの土地が収奪され、強制移住が繰り返された結果、最終的には遠隔の保留地(Indian Reservation)に閉じ込められ、その過程で多くの苦難に会い、虐殺されることもあった、という歴史を記憶し、その上で自分たちの存在を確認しようと、あえて「自分たちはインディアンだ」と主張することもあります。」